小さい頃はお風呂屋さんが大好きだったので、
将来の夢は「温泉のおかみさん」か「お風呂屋さん」でした。
お風呂に入りたい放題だと思ったからです。
小学三年生くらいからは、友達とお風呂屋さんに行くブームが続きました。
しかし、もっと小さい頃は、母親に連れて行ってもらうという方法しか
ありません。
母も忙しいひとなので、連れて行ってとおねだりしても、
かなわない場合もあります。
その夜は半ば強引にオーケーを出させたために、
彼女の気が変わっては大変、と、
大急ぎでバスタオルなど用意します。
足取りは軽く、飛び跳ねるかのよう。
そんなハッピーな小さいわたくしの足下に、落ちていたのです。
押しピンの、それも結構でかいやつが。
運命の悪戯でしょうか。
すこし背のたかい戸棚から、背伸びしてバスタオルを取り終えると、
かかとのちょうど真ん中あたり、鋭い針は無慈悲にぐさりと刺したのでした。
心臓が止まる如き感覚は、痛みのせいか、驚きによるものだったのか。
直後に血が流れ出し、わたしはおそらく多分泣き叫んだのでしょう。
駆けつけた母に手当を施してもらうものの、
むろんお風呂屋さんなど行ける状態ではありません。
不注意に関してお叱りを受けつつ、
しゃくりあげていたのは、痛みが原因ではなく、お風呂屋さんに行けなくなって
しまったから。
「ゆ」と記された暖簾がまるでさよならの手の平のようにひらひらする
光景を目に浮かべながら、絶望、という言葉をおさなごころに知ったのでした。