野球漫画じゃあるまいが、朝五時半に起きて腹筋背筋50×5、外周十周、なわとび300回、を毎日続けてい
うちに、ある朝目覚めると腹筋がたいへんなことになっていた。
九つに割れていたのだ。
プロテインを取り入れたのがいけなかったのか、それとも成長期に育ちきらなかった筋肉たちの反乱だろうか。
とにもかくにも、奇数というありえない数字に割れてしまったぼくの腹は、鏡に映して見れば見るほどありえなく奇怪で、ミステリアスな色気を醸し出していた。
しかし、大学のころから付き合っている佐知代を家に呼び出したその日、衝撃の言葉を投げつけられたのだ。
「きもい!」
ジャージ姿になろうと部屋でシャツを脱いだ僕はその姿のままあっけにとられ、鞄を持って部屋を走り去る彼女の後ろ姿をただ見送ることしかできなかったのである。
きもいだなんて、高校以来いわれたことがない・・・。それも冗談とかそんなだぜ?
それを、三年も付き合った愛しい彼氏に本気で使うだなんて。
あの女、どうかしてるぜ!
裸の上半身をもう一度しげしげと眺めてみたところで、きもい部分なんて見当たらない。
ただ、奇数に割れているという、だけではないか。
ランニングハイのときのアドレナリンの如くあとからあとから湧いてくる怒りに身を任せ、僕は佐知代の携帯アドレスや番号をすべて消去してしまった。
二か月が過ぎた。
正直後悔しまくっていた。運命のあの日から三日後、佐知代とおもわれる番号から何度か着信があり、無視しつづけていると部屋のインターホンも鳴らされて、彼女かと推測されたのだが、筋肉体質になり性格すら怒りっぽくなってしまっていた僕は居留守を決め込んだ。
それから連絡はいっさい途絶え、そろそろこちらからコンタクトをとろうかという気にもなってきたのだが、ここで負けては男がすたる。
思えば付き合いのさなかも、主導権はあちら側にあった気がするのだから、これ以上見くびられては悲惨なことは目に見えている。
しかしさらに二か月が経つと、僕の精神状態はひどいことになっていた。
仕事もろくに手につかず、ごはんも喉を通らないから、コーンフレークやローヤルゼリーなどでなんとか日々をしのいだ。終始彼女のことで頭がいっぱいで、ともすれば涙が溢れそうになる。
許してくれ。
電話をかけて、その一言がいえたら、どんなにかいいだろうか。
消したのが全く無駄なぐらい頭に焼き付いている11桁の数字を打ってしまえばよいだけなのだ。
きっと、出てくれるにちがいない、という確信とは裏腹に、僕はどうしてもその最後の数字を押すことができなかった。
会社に仮病の連絡を入れた後、曇りの空から落ちるにぶい光を受けながら、近所の公園のベンチにもたれかかり、携帯電話のボタンを見つめる。
佐知代との会話を実現させてくれるボタン。まるで魔術師が書き込んだように、押そうとする僕の指を金縛りにさせる右下の、その、9のボタンを。