小さい頃怖かったものが、大人になってから平気になった。
けれども、大人になってから怖くなったものもある。
さてみなさん、
「なにかをこっそり戻しに行った経験」っておありでしょうか?
思わず盗んだきれいな色の絵具を友人の絵具入れに返しにゆく、
触っているうちに汚してしまったポストカードを素知らぬ顔で棚に戻す、
勝手に着た姉の服を、覚えているかぎり元と同じ状態に畳んでタンスに直す、
なぜか鞄に入っていた隣の席の子の漢字ドリルを次の日机の中に入れておく、私のせいできのうの漢字の宿題できなかったよね、ごめんね
と心の中で詫びながら・・・
。
誰かにみられるのではないか、後で発覚して叱られるのではないか、
うしろめたさと緊張感で、冷や汗たらたら、心臓は周囲にきこえそうなくらいに打っています。
中でもおそろしかったのは、
育てていた金魚を、
縁日の金魚すくいの水槽にこっそり流しにいったことでした。
愛着は湧かないし水かえは面倒だし、でほとほと手をやいていた誰かさんは、
閃光のごとくひらめいた恐ろしい計画を、実行にうつしたのでした。
わたあめやたこやきの、甘いにおいをはらんで、空気が体にまとわりついてきそうな蒸し暑い夜。
いちばん混雑する八時ごろを狙って金魚すくいの屋台に立つと、水槽をとりかこむ人々は、
白熱灯のひかりを体にうけてゆらめく朱や黒の姿にふしぎに魅入られてしまい、
いち客としてもぐりこんだその人になど注意をはらいません。
そっと、うず高くつまれた氷いちごのてっぺんに匙を突き立てる時のようにさりげなく、
家からビニル袋に入れてきた二匹の金魚を放しました。
最初とまどったようにくるくるしておりましたが、すぐに、他の金魚たちにとけこむさまは、無色透明な水に、赤い絵の具を落としたときと酷似しておりました。
特になごり惜しさも感じぬまま、誰かさんもまた、
祭の熱気に胸おどらせた雑踏の中へ、とけるように身を隠したのでした。
三年たった今でも、金魚すくいの屋台にだけは自然と体が向かないんだ、
と、その人はぼやいているそうです。
終