少年
今年はもう冬なんて来ないんじゃないかなんて、ついこの前まで話していたのに。
クラブ活動の生徒たちがグラウンドへ飛び出してきてから間もなく、
薄墨をはいたようにあたりは暗く沈んでしまった。
職員室の暖かさの中にいても、ふきすさぶ木枯らしを感じるような十二月半ばだ。
目の前に座っている少年はさっきからひとこともしゃべらない。
いい加減うんざりして投げやりな調子になってしまいそうなのをこらえながら、僕はまた同じことを言った。
「どうしても事情を話してくれないなら、家のほうに電話することになるけれど、それでもいいかい?」
最後のチャンスを与えたつもりだった。その調子が通じたのか、彼はとても小さくつぶやいた。
「母の寝相が、わるいせいなんです。」
え?思わず聞き返すと、今度ははっきりと答える。
「僕がこの一週間学校に遅れた理由は、母の寝相が悪いから、です。」
ここで、阿呆鳥でも鳴いたら最高のBGMだったろうに、あいにく鳥も巣であたたまっているようだ。
この信じられないせりふが、クラスでもお調子者の奴や、悪さばかりしている奴の口から出たのなら、体罰と言われない程度に頭でも小突いていただろう。ふざけるなコラ、とか言いながら。
けれど遅刻の理由を問いただされている少年は、
大人しくて成績も良いばかりでなく、始業前10分には必ず着席しており、授業中も寝たり私語をしたりせずにすこぶる良好な態度できいているような生徒なのだ。
真面目ぶっている、とか周りの大人のために無理をしている、などといった様子ではなく、
あくまで主観的にいえば、
どこか生まれ備わった品の良さを漂わせているのだ。
どう返答したらよいものかと思いあぐねている僕の思考をさえぎって、話しはじめた。
-僕の母は、寝ている間に必ず布団から出てしまうんです。
寒さに弱いはずなのになぜか暑さにも敏感みたいで、眠るときにはたくさん布団をかぶっているのに、いつの間にかぴょーんと飛び出て、気がつくと体がとても冷えている。
ある朝呼びかけても返事がないのでドアを開けて部屋に入ると、
氷みたいに冷えきっていた・・・どころか本当にかちこちになっていたんです。
僕はあわてて布団に戻した。
するとだんだんと血が通いはじめて、肌もやわらかくなってきたんだけど、
そうなったらまたぴょーん、と飛び出してくるんだ。
ノック式のボールペンの頭を机に押し当てて手を離すと、ぴょん、って跳ねるみたいに結構な勢いで飛ぶものだから、僕は必死で抑えなきゃならない。
やっと元の状態にもどったころには僕はもう汗だくだし、
まだ指先なんかこわばってちゃんと動かない母の朝の支度を、少し手伝わなきゃならないんだ。
だから、寒さのひどい朝は、少し遅れるのを、大目に見てもらえませんか。
勢いがついて独り言めいてきた調子をただすように、最後だけ敬語であった。
僕は思った。
言い訳ならもっとまともな嘘がいくらでもあるだろう。
手とか足の裏とかテニスボールとかパイプ椅子とか。全ての固形物を固く冷たくさせるこの冷気であれば、もしくは仕方のないことなのかもしれない。
そんなわけで彼を送り返し、一時間目の途中から入室することを許すことにした。
彼はそれから、冷え込みのひどい日はきっかり三十分間遅れて、しずかに登校してきた。
他の生徒は初めいぶかしがっていたが、
こなすべき日課をこなして清々とした彼の表情や、
集中を乱さぬ静かな足音と動作によって、だんだんと気にとめなくなった。
僕も教えるのに熱中したりなんかしていると、いつ彼が着席したのか気づかない日すらある。
たまにぽかぽかと陽気な日は、ごく自然に、最初から座っている。
ただ、そうでない日には、
品の良い小さな後頭部に、ぴんと小さな角がたっていたり、
ワイシャツの襟が片方だけ、折れ曲がっていたりした。
おわり