私17年間、人を信じたことなんて一度もなかったのよ。
紅色の花をもてあそぶ手のすぐそばにある唇から、いつそんなせりふが出てもおかしくない。
クロエと一緒に居ると、形はどうあれ多かれ少なかれ、それと似たような気分になった。
それぐらい、彼女の唇の色は白く甘さを寄せ付けなく、しかし立体的に女性らしく分厚かった。
彼女と過ごしたのはほんのひと夏だけだったけれど、その記憶の一ページはあまりにみずみずしかったので、
いまだにしわしわして元には戻らなさそうだ。
クロエというのはもちろん本名ではない。
その頃私がひとりで見に行ったフランスの映画に出ていた魅力的な女の子の名で、
見て間もなく出会った女の子があまりにもイメージと重なっていたうえ、
彼女の名字が「黒部」であるのをよいことに、勝手に呼び始めてしまったのだ。
フランスの言葉はうつくしいがけだるそうだ。
私が友達になったクロエの話し方は、日本語なのに気だるげで、しかしうつくしい。
どちらかというと低く、しかしよく通るので、
「宿題やってきてません。」
という返答すら堂々と響いてしまう。
正直にいえば、人に媚びぬくせに先天的な色気を漂わせるクロエのことが私はうらやましかったのだが、
人といても一人でいても(圧倒的に一人でいることが多かったが)さびしそうな彼女はたまにおそろしく
可哀そうに見えた。
牛乳をパックで飲んでいる横顔とか、髪の毛で小さな三つ網をいくつも作って遊んでいる姿とかに、
突然目の奥が熱くなるぐらいの哀愁が感じられることがあって、
思わず抱きしめてあげたくなるのだが、
絶対にうっとうしがられるので死んでもやらなかった。
誤解されてはいけないが、
クロエと私の会話は全てがまったくのどうでもいい話題で成り立っていた。
何を話したかもあまりうまく説明できぬような、いうなれば「宝くじ一億円当たったらどうするか」っていう仮定のさらに10倍くらい、どうでもいようなことだった。
生き方とか寂しさとか人生観とかについては、たがいに微塵も知らないはずだ。
けれどもけれども、
本当に誓って一度だけ、
恋愛について話したことがある。
私が人生一度目の、恋と呼んでもよいような出来事に失敗した時期であった。
公園のひまわりの陰で蟻を一匹ずつつぶす、という邪悪な仕草をすることでハートブレイクをまぎらわしていた私の傍に、いつしか座っていた彼女は、いつもどおり何かを諦めたような顔で動きだったけれど、
ひとつ違うのは、長い指で煙草を持っていた。
どちらかというとおじさんが吸うような渋い、メンソールの入ってないやつだ。
「クロエ、吸うの?」
「吸わないけど、なんとなく今吸ったらおいしいんじゃないかと思って。」
言うが早いが私の口と自分の口にさして火をつけたので
二人はごく当たり前に煙草をふかし始めた。
「クロエは好きな人、いないの?」
失恋したことはばれているはずだったが、慰めの手や言葉がおそろしくて、先に質問してやった。
「今はいない。」
ノン、というのに似た乾いた言葉の後。蝉がなき初め、さらに裏の犬が遠吠えを始める。
間もなく、わらびもち売りの車が近づいてくるテーマが風に乗ってきた。
予想のついた答えにがっかりする間もなくクロエが続けた。
「けど、いても別に、自分を好きになってほしいとは思わない。
ずっと自分のことを考えてほしいとも思わない。
ただ、たとえば私がサザエの壷焼きをめちゃくちゃに好きだとその人の前で話しことがあるとする。
そうしたら、サザエの壷焼きを食べるとき・もしくはサザエの壷焼きのレシピを本で読んだとき、はたまたサザエの壺焼きに似たフレーバーの香水をつけた女と居るときに、
なんとなく私の顔や声や匂いを思いだしてくれたら嬉しい。」
あまりにもはっきりと一気に喋ったのでびっくりして止まらなかった悲しみもふっとんでしまい、
とりあえず動揺を隠すために、
わらびもちの音に反応して近所の犬が吠えるよね、というようなことを言った気がする。
クロエと恋愛について、ひいては人生についての深い話しをする機会はそこで失われてしまったわけなのだが、特に後悔はしていない。
ただ、彼女の恋人でもなかったくせに、会わなくなって10年が経とうとする今でも、
クロエの記憶を鮮やかによみがえらせるのは、
わらびもちでもそのとき吸った煙草でも、さざえの壺焼きでもなく、
やっかいなことに夏というひとつの季節である。
だから私は夏が来るほどに切なく、日焼けした次の日の肌みたいにひりひりする感情で、涼しくなるまで待たなければならない。
(完)
クロエという女の子を主役にした物語を書きたかったので書きました。
結構よく耳にする名なので、フランスとかでは一般的な名前なのでしょうか。