布張りのような不思議な手触りの扉を押すと、一人だけ先客が居た。
お酒を飲むところにしては明るすぎる。
けれども暗い赤と焦げ茶に統一された店内はすっきりとして、中に立つマスターは口ひげがよく似合う渋い中年の男で、全体的に好ましかった。
一番奥に座る男から二つほど離れた席に腰掛けると、おしぼりが静かに出された。
、と思ったら、手渡されたのは長方形の紙であった。箸袋かとも考えたが、中になにも入るはずのない薄さである。
けれどもこれは何ですかと聞くのもいかにも素人じみて嫌だ、と、目の横で先客をとらえてみた。
文庫本を読んでいる。
自宅では集中できないため、とか、何もしないでいると持て余すためだ、とか理由は何にせよ、ショットバーに一人で来て読書する客はよく見かけるが、何か引っかかった。
長方形の紙の用途を知ることはできず、視線をもとにもどしてから、その正体に気がついた。
そうか、彼の前には酒が置かれていないのである。むろん、コースターらしきものもない。おかわりを待っている様子もない。
飲み物を出さないバーなんて、あるだろうか。
長方形を持った手を所在なく宙にうかせたまま一瞬のうちにさまざまな思いをめぐらせて混乱した私に、マスターが低いがよく通る声で問いかけた。
「お客さま、今日は何を読まれますか。」
(つづく)