うみつづき、陸つづき -押海裕美ブログ-

思いついたことが、消えないように絵や文にしました。

協奏曲2

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前回のあらすじ

 初めて入るバーで、先客の前に飲み物が置かれていないのを見て戸惑う主人公X。
そんな彼に、感じの良い初老のマスターがこう問いかけた。

「お客さま、今日は何を読まれますか?」



・・・マスター、「読む」と「飲む」をいいまちがえていますよ。

 エレベーターに乗り合わせた西洋人の両耳にバナナがささっていることをなかなか言い出せない情景を描いた、英会話教室のCMのように、間違いを指摘できずにいる私。
 
「おや、メニューをご覧になられますか。」
 と、状況を察したマスターが差し出したのは、深い緑の皮表紙がついた薄い冊子。
 
 ほっとして開くと、明朝体でこう記されている。

「当店ではお客さまの気分に合わせ、またその日の天候・訪れた時刻その他諸々の事情にふさわしい書物をご提供いたします。」
 
 すべての謎がとけた、ここはアルコールではなく文章に酔わせるバーなのだ。
 
 本棚が設置してあって客に自由に読ませたりするスタイルのものなど話にならない。これぞ本物のブックバー・・・と、
 酒好きと本好きの微妙な共通点をつねづねから訴えていた私は、強いウイスキーの香を嗅いだ時のごとき興奮を覚えながら、
 「じゃ、ロシア製で、なるたけ憂鬱なものを。」
 
 
 自分でもうわずっているとわかる声で伝えると、マスターは「かしこまりました。」と軽く一礼した。
 そしてすばやく振り返ると、壁から魔法のようにつるりと一冊の本を取り出した。
 
 驚いてよく見ると、壁だと思われていた部分は背表紙だったのである。
 まさか。予感にとらわれて店内全体を見回すと、壁のみでなく、天井も棚も、今肘をついているカウンターさえも、すべて本でできているではありませんか。


 「すごいわ!これが、全部本なのね!?」
 デイズニー映画であったら、「ブックスイズワンダフル」という美しい旋律とともに歌い踊りだすところだったが、残念ながら現実であり、私は街一番の美女でもなく仕事がえりの疲れたおっさんだった。
 
 けれども目の前にあるこの現実の、映画や舞台以上のすばらしさといったら!

 
 しなやかな指先で書物をぱらぱらとさせて不具合が無いかをたしかめ、表紙を軽くナプキンで撫でてからすっと差し出すまで、
 一連の動作は酒を作っている行程をおもわせた。
 
 店内にはひとつも酒が置かれていないのに、 
 私の胸の中ははやくも琥珀色の液体で満たされたかのように、淡く揺らぎはじめる。 
 
 「ありがとう。」
 
 数センチ先に置かれたハードカバーを、
 
 初めて酒を飲んだ中学生の頃のように震える手にとってみる。
 ひらくその瞬間、遠い寒い国の透明な水と、刺すような芳香をたしかに感じた。




 (おわり)