蜜月
きのう親不知を抜いた。
18時半から歯医者の予約を入れていて、何をしていても歯のことが頭をかすめた。
突如冷え込んできた空気のせいで冷たい手のひらが余計に冷たかった。
会社の出かけに、職人のおじさんと会ったので、今から親不知抜くんですよ~と言うと、彼は不吉な予言をした。
「親不知は、下を抜く時はほんっまにえらいで~。大学病院でやってもらった方がいいで!俺なんてめっちゃ時間かかって、麻酔は切れてくるし、腫れは半年ひかんかった。」
予約しているのは小さい頃から通っている地元の開業医。彼の引き止める声は真実味を帯びていたが、さすがに半年はうそだろう、半月のいいまちがえだろう、
と、多少のわだかまりができたものの、海坊主はもう抜く事を決心していた。はやく終わってしまいたい。
ちょっと相談してみます~なんてうそぶきながらその足で歯医者へ。
近頃、歯医者さんは剣道を始めているらしい。私も少しやっていたので、このところ、よく道場トークになる。強い剣士の先生が皆にくばってくれた教え、と言って見せてくれた、毛筆の字がコピーされた文面は、素晴らしかった。
自分ができる、と信じているものだけが成功する、という内容だ。かいつまんでいえば。
三十分ほど、稽古着の話や踏み込み足の話やらした後、じゃあ始めよう、という感じで歯茎に次々注射される。そんなに痛くない。こんなもんでよいのか、もっとあごの方まで注射して神経をかんぜんに無くしてほしい。
頭が出ていないため、まずは歯茎を少し切るという。
そこからは想像を絶する…いや、今までに耳にしてきた「親不知えらい談」を裏切らぬ、
ある意味想像どおりの施術が待ち受けていた。
使用された器具は主に3つ。歯を削っているらしい、苦い汁をとばすドリルのようなもの、大きなピンセット、よく見るバキュームと水がでるやつ。
それぞれが交互に使い分けられながら、私のあごは工事現場と化した。
なんか痛みが出てきた、と思った瞬間うったえて麻酔を追加してもらものの、
そんなものではどうしようもならん顎のつっぱりと、顔が壊れそうな衝撃にひたすら耐える。
途中から麻酔のせいもあり頭もうつろ。
「今ここに来ていること家族の方は知っていますか?」
なんて医師がおかしな問いかけをする。無断で帰りが遅くなることを心配しての言葉だったが、
今ここで死ぬのではないかと恐怖を覚える。
途中から、新しい器具が導入された。
ペンチでひっこぬくのかと思えばそうではなく、てこの原理で掘り出すようだ。
アイスピックにもドライバーとも見える新顔は、容赦ない強さで私の歯から顎にかけて潰しをかけにくる。
逆手にもちかえてさらに力を込める歯医者のマスクの端あたりを凝視して気を紛らわすも、
はいこっち見ててください、と、顔を正面に向けられる。
もうだめだ…しかし私は冒頭で見せられた紙面の文句を頭に反すうさせていた。
できる、と信じていればできる。その信念は努力につながる。
わたしの親不知は抜ける…私の顎の骨はおれない!!!
新顔でまた、がり、がり、とやられ、ひときわ強い痛みがあったので訴えるため右手を挙げると、
はい、もう抜けますよ~
と、無視された。
最後のひとふんばり、という手応えがすこしあり、
親不知はころろんと全部とれてしまった。
よっつぐらいにわられていて、少し血が付着していた。
安心感と痺れから、ふぁふぁふぁ、みたいになっている口調で「はーよかった」などと会話をかわした。
それにしてもなんという苦痛だったであろう。
こんなことを学生のうちから経験している友達を尊敬し、
人生においてさらなる苦痛を味わうことがこれから先もあり、もっとひどい痛みを日常的に経験している人びともいるのだろう、という推測により、
今までわかったような口調でべらべら人生観とかを語っていたことを反省した。
歯医者はかえりにパインジュースをくれた。
今朝から顔が、おかめのようにふくれている。
J•ウェブスターの「あしながおじさん」の中で、ジュディがおたふくにかかってふくらんでいるさまをユーモラスなイラスト付きで書く手紙がある。
まさにその絵のとおりだが、手紙をおくるべきあしながおじさんがいないのでブログにしました。
◯参考 「あしながおじさん」(J•ウェブスター著)
おわり