うみつづき、陸つづき -押海裕美ブログ-

思いついたことが、消えないように絵や文にしました。

ハネムーン

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 初めて彼女ができたとき、僕は昔、本当に小さい頃に、昆虫採集に熱中していた頃を思い出した。朝から暗くなるまでごはんを食べるのも忘れて熱中していた程なのに、鈍いせいか捕獲に成功したことは一切なく、そんなに虫が好きなら、と祖母が夏休みにデパートで買ってきてくれたオニヤンマを、うらめしい思いで窓から逃がしたものである。
 
 なんだって好きなのだったが、特に僕は蝶に魅了されていた。
 おそろしい速さで動く羽が日光を受けてちらちらと光を発しているようで、その間にも美しい模様が見え隠れする。
 夏の間最も目にするのはアゲハ蝶で、ステンドグラスのように幾色もの色を透かして空中を行き交う大きな姿に、暑さも流れる汗も忘れて見入ってしまうのだ。


 彼女の話をするつもりが、なぜ蝶の描写など始めてしまったのか。
 僕の思想はあちこちに脱線する癖があり、人との会話中も心がそれこそ蝶のようにひらひら別の場所へ行ってしまうことがよくあり、今の彼女である瑠璃子に愛想をつかされかけているのも殆どそのせいであった。
 話をもとに戻そう。
 それでもやっとのことで初めて網の中に閉じ込めることができた蝶を震える手でつまんでそっと顔を近づけた時、毛虫であった頃の面影を確かに残したうぶ毛だらけの体を、鬼のようにいかつい触覚を、奇妙で不快なものに思ってしまったのだ。
 その時の感じと、実は以前から気になっていた隣のクラスの少女に恋を告白された瞬間の、歓喜よりも先に訪れた失望は、まことによく似ていたのだった。


 そんなこんなで、あまり何も不満を漏らさない瑠璃子と、人の心の動きになどとんと気付けないぼんやりした僕の間には、数々の不満とわだかまりが、知らぬうちに積もった地球儀の上の埃のように、もう表面が見えなくさせるくらいにまでなっていたのである。


 「もう、いい加減にしてよ!」
 すっかりコーヒーもなくなってズコー、と音をたてているのにも気付かずにストローを吸い続けながら何か他愛もないことを考えていた僕は、耳に飛び込んできた怒りの声が最初自分に向けられていることさえわからず、ようやく気が付いた時にはお金を投げるように置いた瑠璃子がハンドバックを持って出口の方へ歩いてゆくところだった。
 火事場の馬鹿力、とでも言おうか、その時だけは緩慢な動きを常とする僕の腕は反射的に瑠璃子の手首をつかんでいた。
 「待てよ!」
 こんなときにモノマネをしているのかと誤解を受けぬよう、口調がキムタクにならないようにとつとめて渾身のストップをかけたのに、レ・ミゼラブル、ああ無情、容易く振りほどいた手が僕の頬をそのまま平手打ちし、呆然と立ちすくむ僕を置いて彼女は行ってしまった。

 競歩選手も顔負けの早足・・・、いや、ちがった。とんでもないことをしてしまった。
 彼女を泣かせてしまったのだ。
  

 一目見たときから魅力的だと感じていた黒目勝ちで切れ長の目から溢れていた雫が、僕の肺を満たして息もできなくさせた。狂おしいほどの罪悪感と自分に対する怒りで、胸をかきむしりたかった。
 一方、頭の片隅では、ほぼ手を付けられていないままに氷がとけとけになってしまったアイスティーを勿体無いだとか、そういえば黒い瞳はどこかアゲハを連想させるものがあったな、とか、色々な別の考えが去来し始めていた。
 いかんいかん、頭を振ったって一度脱線しだすともうアメーバの分裂の如く止らないのである。

 その分裂の先にまた、蝉の声や太陽の眩しさと共に蝶を追いかけた記憶が蘇る。今度こそ、と力いっぱい網を振り下ろした脇からするりと抜けて、からかうように頭上を一周した後遥か彼方へ舞ってゆく姿が呼び起こす、悔しさ。興奮を伴う甘い闘争心。
 
 僕は、あの夏蝶を捕まえることに成功しない方がよかったのかもしれない。