口からネムシを出す人
私たちが冒頭だと思っている部分は実は、一番初めではないのだよ。
同い年だというのにすっかり白くなった頭髪と同じ、白いひげの下で唇がうごくのを眺めながら、
わたしはうなずいた。
ぼんやりするのは、日中だというのに見事に光の射さぬ暗い室内のせいか、出された薄すぎるコーヒーのせいか。
機械が出すにしては不規則な低音が絶え間なく続いている。
最初気になったけれど、三十分も経たないうちに馴れて、すっかり変わってしまった同級生の、痩せぎすの姿にも奇妙な親しみを覚えるようになった。学生の頃の文芸部仲間で、割と馬が合ったのだが、自分が故郷を離れたせいで卒業以来会っていなかった若松という男だ。
「どういうことだ?」
私の問いに、体中の唯一そこだけが生気を帯びているというぎらぎらの目がまっすぐにこちらを見て答える。
「『走れメロス』を読んだことがあるだろう。変に感じなかったか?あの時。」
メロスは激怒した。というやつだ。教科書に載っていたので、すぐに思い出せる。
確か、唐突な出だしに、自分が最初のページをめくり損ねたのかと思い、ページを挟んだ親指と人差し指を摩擦させてみたが、前のページはくっついていなくて、それは間違いなく始まりの部分であった。
「太宰治のか。ああ、たしかに違和感を感じたよ。」
「そう、その違和感は正しいのだよ。私が冒頭部分を盗んだのだ。正確には、食べさせたのだよ。」
なんとなく、レクター博士シリーズの映画『ハンニバル』を思い出した。
食べさせる?何にだ。
若松は、学生の時みたいな軽い調子で「こいつさ。」と言い、
机に置いてある無数のマグカップのうち一つから何かをつまみ出す。
目を凝らすと、白い糸、いや、ごく小さいがそれは動いていた。
「虫か?」
「そう、本の虫だよ。
古い本を開くと時折、目にやっと見えるぐらいの小さな虫が挟まっているだろう。」
心当たりがある。
あいつらはしかも、生きている。一体何年前からそこにいるのか、本の中が棲息地なのか、深く考えたことはないが、何となく話が飲み込めてきたぞ。
「つまり、こいつらの食糧は本の冒頭部分というわけか。」
若松が深くうなずいた。コーヒーを一口すする。
推測だが、きっと私のより濃くて旨いはずだ。
「察しがいいな。でも惜しい。彼らが食べる文字は冒頭に限らない。たくさん食べて帰ってきた彼らの体内から冒頭部分だけを、私が収集しているのだ。」
「なぜ冒頭部分だけなんだ?」
「すばらしいからさ。
それは淹れたてのコーヒーの最初の一口目みたいなものだ。
そうしてそうでない部分は、二口目以降と同じく魅力が半減する。」
だとすると、あまりに有名な『雪国』や『草枕』の冒頭も、別のものであったのだろうか。
彼が虫を収集する前から虫の食行動があったのだとすれば、はるか昔の本にだっていえる可能性がある。
虫たちによって食われ、残った未完成な文字の羅列を、私たちは作家の手による完成品としてあがめているのか。
疑問点は山ほどあったが、集めてどうするのかが一番知りたかった。
「抽出された真にすばらしい文章だけをコラージュさせて、この世でいちばん美しい本を作るのだ。」
若松は自分のやろうとしていることを信じて疑わない様子で言った。
部屋に流れている音の正体が、大量に飼育されている虫たちのうごめく音だと知った時、
彼の頭の白いのが老化のせいではないのでは、と感じた。
おわり