久々に見た映画の余韻に浸るために、シアターを出てすぐのところにある昔ながらの喫茶店で、僕は煙草をふかしていた。
世の中が便利になる一方で、レトロ、という言葉がファッションのようになってきているせいか。
狭い店内はいっぱいになってきた。平日の夕方だというのに。
相席よろしいですか。
アメリカンを運んできたときと同じ囁くような調子で、給仕係の女の子が尋ねる。
顔をあげると、パナマ帽をかぶった茶色い上着の紳士が微笑していた。
どうぞ。ひとりの時間の終結に内心がっかりしながら煙草を消す。
初老の紳士はコーヒーを頼んだ。
なにかこっちを見ている気がする。
しゃべらなくては悪い気がした。
今日はいい天気ですね、と差し障りのない台詞を発したのを皮切りに、紳士が会話をはじめてしまった。
「映画をみてきたのでしょう。」
「そうです、たまたま仕事が片付いたものですから、久々に来たくなって。あなたもそうですか。」と僕。
紳士は香り立つ琥珀の飲み物に大事そうに口をつけて、答えた。間をとったような動作だった。
「ええ。私もそのはず、でしたが、映画よりもすばらしい体験をしてきたのです。」
「それは一体?」
「タイムトラベル、です。」
ほーら来た、春先でもないけれど、こんな気候の良い日が変人が増える。
そんな思いを見透かしたように、細い目で遮ると、彼は続ける。
「映画のシーンが切り替わるように、チケット売り場に居たはずの私は、座席にもう座っておりました。
まわりは超満員、いい大人たちが揃いに揃って、まるでこれから世にも素敵なことがはじまるかのような輝いた目で上映を待っているのです。」
「とびきりの話題作だったのでしょうね。」
「しばらくして、映画がはじまりました。」
紳士はまたここで一口飲んだ。
「それはもう、たとえようもない一体感でした。観客はそこにスクリーンの世界が存在するかのように、一緒に首や体を動かし、笑い、怒り、泣いたのです。
しまいには匂いや空気の振動までも伝わってくる興奮に、僕もまた自分がその場にいる経緯も忘れて、映画の中に入り込んだ気分になっていました。」
紳士のコーヒーからはまだかすかに湯気がたっていたが、僕のはさめている。
おかしな感覚だった。変な老人にも、人を食うのが好きな悪趣味な男のようにも見えて、そのどちらともいえない。
彼の話を信じることがいちばんてっとりばやそうだ。
「それはすごい。あなたは未来の映画館にでも行ってきたのですね?」
最近では当たり前のようになった3Dが、より刺激的に、臨場感あふれる作風に発達を遂げた結果であろう。テクノロジーに溺れているようでどうも好きにはなれないけれど。
予想に反し、彼はかぶりを振った。
「いいえ。私の行ってきた時代は過去だったのです。今より70年も前の。」
僕は思わず納得して、そして笑ってしまった。
もう一杯アメリカンを頼もうか。自分も少し昔にかえって、バニラと氷がいっしょくたに口に入ってくる感覚が子どもの頃大好きだったクリームソーダ、あれを頼もうか。それとも。
(完)