ごそり、
という嫌な音が耳の奥でひびいた気がした。
見るともう、肩まで僕は、黒い水につかっている。
反射的に岸へ戻ろうとする。
慌てたのがいけなかったのか、
何かに足をとられ、たちまち体が沈んで、息ができなくなった。
ボコボコ、という音と息苦しさが同時にやってきて、
頭の血管がきれそうになる。
人生が走馬灯のように浮かぶ間もなく
目を覚ますと、鼻先に河童の顔があった。
朦朧とした意識でさえもすぐにそれと判別できるような、緑色の肌をして頭に皿を載せた、典型的な姿だ。
気がついたかね、
というようなニュアンスで鳴くと、九死に一生をえてまだ本調子でない僕にかまわず、
ぺらぺらとしゃべりだす。
どうやら日本語ではないようで、さっぱり理解できなかったのに、
ふしぎと、しばらくきいているうちに、内容がすらすらと頭にはいってきた。
「君は、昔河童だったね。
人間とは、昔、みんな妖怪だったのだよ。」
どうやらそんな感じらしい。
あたりには、暗いグリーンの海藻類と、水に棲む生き物たちの呼吸がうごめいていて、
地面に助け上げられたわけではなく、沼の底の世界へと連れてこられたことに気づく。
呆気にとられる僕を置きざりにして、彼はなおも話をすすめた。
「みんな、ろくろ首とか、三つ目とか、人魚とか、
別の特性をもった妖怪のくせに、
『首が長い』とか、『目が離れている』とか、『泳ぎが異様にうまい』とか言って、同じ人間、というカテゴリーにおさまった上でできているのだよ。この沼の上の社会は。」
「じゃあ、若はげは、もしかすると皿だっていうのかい?
河童だったときのなごりの。」
ようやく口をついた僕の質問に対して、おごそかに「そうだ。」とうなずく目の前の河童。
彼の間髪いれぬ答えと、水辺特有の生臭いにおいに誘われるようにして、
以前、たしかに河童だったときのきおくが頭に流れ込んでくる。
そうか、照りつける太陽がいやにじりじりと感じたのは若はげのせいなんかでなく、
皿が乾いたせいだったのだ。
肌の脂がでやすくなったのも、加齢のせいなんかでなく、
沼にすんでいたころの粘着質の肌に、からだが帰りたがっているからなのだ。
すべての答えは、僕をあらゆる悩みから解放させると同時に、
心地よい浮力をまとった水の中での生活へと手招きしているようだった。
けれども、こんなところまで来てまで、
手にしっかりもっていた鞄の中には、
明日の会議に必要な書類の原本がはいっている。
「そのかばんは、いずれ水面へむかって浮き上がってゆく力をもっている。
それにつかまって地上へ行くか、このまま水底の世界へ戻ることを選ぶか。君しだいだよ。」
懐かしさすら感じさせるおだやかな瞳の彼の説明を、何度も反芻させながら、
鞄を握る僕の手のひらの指から、たしかに、水かきが垣間見えていた。
(おわり)