かすかな物音がして目が覚めた。
時計を見ると夜中の二時だ。
寝付きがよく、かようなことは滅多にないのだが、空気中をただならぬ気配が冴え冴えと横切っている。
横向きに寝ている後頭部でサカサカ、とうごめくのがわかったので、
梟なみの勢いで90度まわって、その音の主を手の平で抑え込んだ。
南くんの恋人、とかみたいに好きな女の子とかだったら一生立ち直れないから、
蚊をつぶすときとは違って、あくまでやさしく包むように、だ。
逃げ出さぬようそっと隙間をあけてのぞくと、
近所の歯医者の先生だった。
変な人だし顔も特徴的なので、暗がりでもわかる。
真夜中の、この不思議だがとんでもなくときめかない出逢いに、僕はしばらく言葉を失った。
そうすると彼は観念したのか、
「いやいや、決して怪しいもんじゃないんですよ。ただ、歯の調子はどうかときゅうに気になって夜も ねられなくなったもんですから、
夜分にチャイムをならしておじゃまするのも悪いし、
ちょっとミニチュア化して、起こさないよう伺おうかと・・・。」、まくしたてる。
ちょっとミニチュア化して、のくだりが気になったが、
、ああ医者だし色々な薬も持っているだろうと、そこは流して、
よく喋る彼がいつにもまして早口なのと、汗を大量にかいているのが怪しく、
僕は問い詰めた。
「うそつけ、ほかになにか理由があるのだろう。もしや医療ミスをさとられないために証拠隠滅しにきたのか?はけ!はかないと潰してティッシュにつつんで流すぞ!」
すこしだけ手に力を入れると、本当に怖がったらしい。ひーと叫んだ声が、トローチの穴から出る風音くらいにかすかだった。
「待って!」
という女の声がどこからかした、と思ったら、自分の口の中からだった。
ちょっと喉のあたりがむずむずする、と感じた途端、白いしなやかな指先がにょろりと突き出してきて、あれよあれよという間に這い出してきた姿は唾液でねばついてはいるが紛れもなく美しい女で、
しばし見とれてしまった。
長い黒髪とすこし切れ長に輝く瞳から艶をふりまきふりまき、
彼女は鈴の鳴るような声で話す。
「先生を放してください。
私の名は、虫歯菌。あなたの口腔内で歯を蝕み、養分を吸って生活しています。
見つかったら最後、削られてハイおしまいの儚い運命の私ですが、先生は命をながらえさせてくださっているのです。」
どういうことやねん、とにらむと、歯医者は年甲斐もなく真っ赤な顔でぼそぼそ口を動かした。
「・・・もう言い訳はしません。
虫歯菌を撲滅するのが僕に与えられた使命なのに、
きみの親知らずに潜む彼女と目が遭った時、まるでニュートンのリンゴみたいに、恋におちてしまったんです!」
センスのかけらもない最後のせりふは、僕よりも美女にむけられているようだった。
虫歯菌を名乗る美女と歯医者は熱い感じで見つめあって、
その間に間抜けに寝転びながらもやもや頭をはたらかすと、なるほどつじつまが合う。
二年間歯医者に通っているのに、一向に終わりがないばかりか、
他の歯はぴかぴかで健康なのに、右上の親知らずだけ、痛みがひどくなるのだ。
ゆるされぬ恋、は、可哀そうだが、被害をこうむった方はたまらん。ほっとくと悪化する一方だし、口から悪臭がしたらどうしてくれるのだ。
怒りをこめて反論をぶちまけると、
しとやかにしていた美女がきゅうに怖い顔になって僕の方へ向きなおった。
「あなたは人でありながら最も人の心に必要な、愛、という思いを理解しない悪い生き物です。
あなたと、あなたをこんな風にわがままに育ててしまった周りの人間を魔法で変身させてやりましょう。」
言うが早いが、きらきらとたとえようもない美しい光の粉に僕の体とそこら中が包まれ、
次の瞬間には
みにくい野獣に・・ではなく、小さな白い蟻になっていた。
あたりを見回すと似たような蟻がたくさん居て、もしかすると父母とか妹なのかもしれないけれどさだかではない。
口、といってはいいのかわからないが歯のあたりをかきまわすと、
痛みはなくなっているようだった。一本の虫歯のために二年も通いつめたのだから、その虫歯さえいなくなれば口内環境は抜群だろう。
きらーん、と、白い歯が光る音がきこえたきがした。
なんにも悪いことしてないじゃない、なんて理不尽さを嘆く前に
この丈夫な歯で、とりあえず目の前の木造のものをかみくだいてみてはいかがでしょうか。
(おわり)